さる社交場で接客業に就くベテランスタッフ曰く、新人当時に上司から〝お客様に失礼のないボールペンを胸ポケットに挿しておくように〟と幾度となく言われたそうです。
〝お客様に失礼のない〟とはものの価格の安い高いではなく、「お客様がここへお越しになるまでの準備」にたいしてこちらの準備が不足していても過剰であってもいけない、ということでしょう。
その人は「なけなしの給料」でまずカランダッシュのエペを買い、初めての特別給でモンブラン マイスターシュテュックを買ったのだとか。
「……そりゃあ買うのに勇気は要ったけれど、胸ポケットに挿してるとなんだか自信がついてね。お守りのようなものかな。お客様がたとの会話も弾んで、最後には筆記具大好きになっちゃった」
飲み屋で期せずして聞かせてもらえるそうした話には、たいていモンブランの筆記具が登場します。
なかでもこのマイスターシュテュック ゴールドコーティング クラシック ボールペン(旧称・マイスターシュテュック クラシック 164)は超定番のひとつで、たとえ(まだ)筆記具好きではなさそうな人とモンブラン好きとの対話であっても「このボールペンいいよね」「ほんと書きやすいよね」というやりとりが立派に成立するという、シンプルなのに忘れがたく、また他にも似通った形のものはあるのに見分けが容易につく、稀有なボールペンです。
なんといっても、手にした時の安定感は目の覚めるほど。軸の太さ具合といい、尻軸に挿されたキャップのような軸上部がボールペン先端に向けてかける「重み」といい、完璧です。
軸全体がよってたかってペン芯の動きを支えてくれている……そのような感覚で心強く書き進めることができます。
また、モンブランのボールペンリフィルの書き味の良さも、特筆すべきことです。
小日向は昔、ステンレス軸の「Sライン」に同じジャイアントリフィルを入れて使っていましたが、こちらの軸に替えたあとには「同じリフィルなのに、こんなにも書き味が変わるのか…」と驚いたものでした。
この油性ボールペンインクはボール芯の回り具合も快適で、右手でかなり軸を寝かせて書いてしまいがちな自分の持ち方でも描線にダマが発生しづらいのがありがたく、カランダッシュのゴリアット芯ともども重宝にしています。
これはボールペン全般に言えることですが、ボール芯で紙に溝を作り、そこへインクを流し込むように書く意識からついつい筆圧をかけてしまいがちです。また、筆圧をかけることでブレのない描線を書けるものです。
小日向も右手が不自由になった期間に左手で筆記練習を行ったさい、筆圧をかけると文字の形を作りやすいのだと悟りました。
こと全方向から描線を引けるボール芯は毛筆に近しく、どこかに支えがないと線がふらつきがちで、その支えをボール芯に集約させたくなります。でも、それだけでは一輪車に乗っているようで不安になる。そこで、手の側面を紙にしっかとつけて軸を握る指に力を込め、筆圧をかけます。これはけっこう、疲れます。
「安定した一定の描線を引きたいのだから、筆圧をかけるの。疲れてもいいの!」と仰るかたもおられることでしょう。
その書きかたは適宜行うにしても、その合間にちょっと力を抜いてみることでボールペンの描線が変化し、線を引く楽しみが、ついては文字を書く楽しみが広がります。
その変化がマイスターシュテュックの軸でモンブランの油性ボールペンリフィルを使う時、いっそう顕著に現れます。
上の写真のように、黒インクの濃淡まで違ってきます。
力を抜いて書くといっても(また力を入れて書くといっても)、文字を書く時にはたえず力の加減は変わっているものです。その違いも味わってみると、ボールペンを通じて文字を書くことの奥深さを痛感します。
また昨今油性ボールペンには、三菱鉛筆のジェットストームやパイロットのアクロボール、ぺんてるのビクーニャなど、なめらかに書ける低粘度インクのものが各種登場しています。これらで「力を抜いて書くボールペンの楽しさは体感済み」というかたも多いのではないでしょうか。
軸の真価を味わうためには、リフィルを取り出してリフィル単体で書いてみることも時に有益です。▽
モンブランのジャイアントリフィルは、ゴリアット芯やパーカータイプ芯などのようにインクタンクが大容量で、ほぼクリップペンシルのような「軸」をしているのも見逃せない点です。これだけでもなかなか書き味が「いける」のです。
この状態でひとしきり書いて、そのあと軸に格納して書き比べてみると…「なるほど外側の軸の作りには理由があるのだな」と実感されることと察します。
さらにモンブランの油性ボールペンリフィルは、近年色数もぐっと増えました。▽
写真の「前の黒」などと書いてある部分は、旧リフィルの黒・青・赤インクでの筆跡です。
この色彩は、万年筆インクを選ぶような感覚が生まれてくる!
往年のロングセラー・マイスターシュテュック クラシック ボールペンに新たな楽しみが加わりますね。
外観、書き味、いずれも極上。
筆記具を身につけ、文字を書いて日々を過ごすことへの覚悟が決まる一本です。
小日向 京(こひなた きょう)
文具ライター。
文字を書くことや文房具について著述している。
『趣味の文具箱』(エイ出版社刊)に「手書き人」「旅は文具を連れて」を連載中。
著書に『考える鉛筆』(アスペクト刊)がある。
「飾り原稿用紙」(あたぼうステーショナリー)の監修など、文具アドバイザーとしても活動している。